ジャパンとの出会い−

 

僕が幼稚園の年長さんの頃、親父が新車で買った車が5代目スカイライン(通称ジャパン)でした。その前は4代目スカイライン(通称ケンメリ)の1800GLという、いわゆる丸テールでは無い、名ばかりのスカイラインに乗っていました。

ケンメリを買って1年半くらいの昭和52年8月にジャパンがデビュー。ジャパンの最初の発表会はナイター営業で8時か9時くらいまでやっていて、当時はまだ親父も土曜日が仕事だったので、慌てて帰って来るやいなや日産プリンスへ家族みんなでケンメリに乗り込み出発!親父も多分スカイラインなのにGTでは無いことにコンプレックスがあったのではないかと思われる。デビュー前から週刊誌のスクープ写真等を母親に見せて、根回しをしていた。

日産プリンスに到着!ずらりと並ぶ「新型スカイライン」。見たことも無い低く構えたノーズ、ハニカムグリル、車のエンブレムはど真ん中に付いているのが当たり前だと思っていたのに(家のケンメリ後期の影響?)ちょっとツッパって端っこに付いている。そして飛行機のコクピットを彷彿させるメーターetc、子供心に「格好いい〜!」親と離れて展示してあるジャパンの運転席に片っ端から座って遊んでいると、親が「ポスターがもらえるけど、どれがいい?」と3種類の中から選ばせてくれた。僕は透視図になっているモノを選んだ。その日は他にもジャパンのデザイン画のお皿とか色々もらえて「なんでかな?」と思っていた。そうしたら2〜3週間後にジャパンのGT−E・L(ベージュメタ)が家に届けられた。「買ったんだ!」とその時初めて気が付いた。

 

 

 

←こんな感じのジャパンでした。親父のは昭和52年式GC210のGT−E・L

その後ジャパンは約6年間、我が家の車として大活躍をして役目を終えた。僕らの子供時代はスーパーカーブームもあったので、割と車に関心のある人間が多く、秘かに親が「スカイライン」という高性能なイメージを持つ車に乗っている事が自慢であった。ただし、実は最期の方は小学生特有の新しいモノ好きな習性もあり、ジャパンの魅力は僕の心の中ではだんだんと薄れていた。周りの車が角目になっていく中、うちの車は丸目だったし(コレは大切!)、また家のジャパンはE・Lという中間グレードだったので小学生が喜ぶパワーウィンドゥやオーバーヘッドコンソールといったきらびやかな装備もなかった。この頃はどちらかというと、430セドとか鬼クラもしくはC31ローレルやGX61マークUみたいな車に興味津々だった。運転出来ないから走りの事は全く関係なくて(雑誌のインプレッションは気になっていたケド)豪華なスタイリングやシート、木目といったファクターの方が重要であった。実際このあたりから、世の中も「ハイソカーブーム」になりつつあった様に思える。